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こんにちは。

盛岡せんぼくバランス治療院の院長

中村守(ナカムラ マモル)です。

盛岡せんぼくバランス治療院は、「はり師」・「きゅう師」の国家資格者である院長が、完全に手技のみで施術する整体院です。

盛岡せんぼくバランス治療院・はり師・きゅう師

中村 守(ナカムラ マモル)

1961年(昭和36年)1月26日

盛岡市生まれ

岩手県立盛岡第四高等学校卒業

日本大学文理学部哲学科卒業
日本大学文理学部哲学科・修士課程中退

北東北東洋医療専門学校卒業

厚生労働大臣認定「はり師」・「きゅう師」

2010年1月22日(橋本敬三先生の命日・「盛岡せんぼくバランス治療院」開業

「選びたまえ、きみは自由だ!」

もうずいぶん長く生きてきたものです。正直十代のころは早世することになにか「あこがれ」を感じていたものです。

でもね、いまは、いくところまで、いってみよう。最後までこの人生ってやつを味わいつくしてみたい、そう思います。

だって、いま、やっと私は念願かなって、この「せんぼくバランス治療院」を開業することができたのですから。

あまり波乱などない、それこそ平々凡々とした人生を送ってきました。
でもね、その時、その時、だれだって大切なことを自分できめなくてはならないシーンに直面するものです。あたりまえですよね。

そんなとき、私はいつもひとつの言葉をつぶやき、自分を励ましてきました。

「選びたまえ、きみは自由だ」(サルトル)

この言葉に初めて出会ったのは高校2年生の時です。

いまおもえば、思いっきり、きどって、人生に斜に構え、現在ではもう死語になってしまったクールでニヒルなポーズにあこがれていた時期です。

読めもしない、サルトルの「実存主義とは何か」という本を古本屋で手にし、この言葉に出会いました。

本の内容もその論理の流れもまったくわかりはしませんでした。

ただ、この一言。「選びたまえ、きみは自由だ」。

このひと言にそれこそ、全身がうちふるえるような、感動を覚えたものです。

なにもかもうまくいかず、高校の授業にもついていけない、ただの「おちこぼれ」になってしまっていた私は、なんとかして、自分の生きる道をさがそうと、もがきくるしんでいた時期でもありました。

「青春時代の青臭い悩み」といってしまえば、それまでですが、本人にとってはそれは、苦しい絶望の日々でした。

ともかく生きる道筋、手助けがほしくてたまらないのでした。

その時出あったこのサルトルの言葉にどれだけはげまされたことか。

「自由なんだ。まず最初の一歩をふみだしてみよう。前に進んでみよう」。

またサルトルはこうも言います。「ひとは自分が選んだものになるのだ」。

自分の人生は自分がきめて、自分がつくっていくものなんだ。

ただ、それだけのことです。

それだけのことが、とても嬉しかったんですね。

でもね、現実は「自由」だといわれても、みなさんもご存知のとおり、いたるところに、しがらみ、思い通りにいかない「鉄鎖」にグルグル巻きにされていて、身動きできないものですよね。

だからこそ、この言葉にあこがれたんですよ、きっと。

「すべてのしがらみから解き放たれて自由に生きたい」。

そして、それが、私の悩める子羊のような青春の日々の幕あけというわけです。いつも「選びたまえ、きみは自由だ!」とひとり、自分自身にブツブツと語りかけながらね。

音楽への目覚め

みなさんの人生の中での、ターニングポイントといいますか、何かが変わってしまい、もう、後にもどることができない、そんなショッキングな出会いというのが、きっと、ひとつや二つはあるはずです。

中学校2年生の時でした。友人の家で聴かされた「ロック」には驚きました。忘れもしません。ディープ・パープル「紫の炎・バーン」。

全身鳥肌、5分ほどのその曲が終わっても、この世の中にこんな刺激的な音楽があるのか、まったく知らない世界との出会いでした。

それからは、もう毎日「ロック」、「ロック」、「ロック」の日々です。

もう学校のお勉強どころではありませんでしたね。音楽雑誌をすみずみまで、なめまわすように繰り返し、繰り返し読みふける日々です。

私にロックを教えてくれた、マセタ友人たちに追いつこうという一心でひたすら、聴きまくり、読みまくった日々のはじまりですね。

学校のお勉強からはずれる路線はもうこの段階できっともう決まっていたんでしょうね。学校のお勉強より「おもしろい」ことをみつけてしまったんですから。ロック、ロック、ロック!

ハードロッックのディープ・パープルにはまもなく、飽きてしまったんですが、そりゃそうですよね、始めて買ったロックのレコードはディープ・パープルの「マシンヘッド」で、これ一枚しかもっていないのですから、毎日こればかり聴いていたのでは、さすがに飽きちゃいますよ、なんぼなんでも。

けれども、次から次へと、出会う音楽、出会う音楽の新鮮なこと!すべてが、初めて出会う音楽、未知の音楽なんですから、本当に驚きの日々でしたね。

たとえば、ピンク・フロイドの「狂気」。心臓の鼓動ではじまるオープニング。駆け回っての左チャンネルから右チャンネルへと縦横無尽に駆け巡る音。「アス・アンド・ゼム」の涙なくしては聴けないバラード。

イエスの「危機」。オープニングのチンチロリンの音が明確に映像を生み出す瞬間。音を聴くことで、映像までが浮かんでくる不思議。驚きでしたね。「音楽とは映像を表現することではなかろうか?」なんて考えたものです。それほどリアルに音楽を聴くことで映像が浮かびあがってきたものでした。

国語の授業

ロックにはまり、お勉強をしない日々がつづいても、自ずから高校には入らなくてはなりません。まあ、それなりに、受験勉強もしたものです。

高校ではもちろん「おちこぼれ」。

おもいっきり「この世」をすねて生きていましたね。

そう、「すべてはこの世の中が悪いんだ。大学にはいりたいんだから、勉強ができなくても、学びたい意欲があるものはどんどん入学させるべきだ。そんなやる気のある学生を入学させない、日本の教育システムはまちがっている」。

本気でこんなふうに考えていましたね。バカですよね。バカを入学させる大学なんてないんですから。あたりまえです、、、。

サルトルにいわせれば、こうなりますね。そのバカさかげんだって、自分が選び取った結果なのだ。すべては、自分の責任なんですから。そんなことにも、サルトルは気づかせてくれましたね。

でもね、そんな「おちこぼれ」でも、なぜか国語の授業だけは好きだったんですよ。現代国語も古文も漢文も。「もう授業にはついていけないし、手も足もでないから、ああ、もうひたすら本を読もう」。

そんな「おちこぼれ」のわるあがきですね。けれども、生きるための、本人にとっては、それこそ、真剣な戦いではあったのです、、本を読むことが、、、。

現代国語で出会った、中原中也、萩原朔太郎の詩句。

太宰治の明るい中期の作品。「新樹の言葉」。後期の「人間失格」。

中島敦の「山月記」。

教科書にはなかったけれど、梶井基次郎の「檸檬」。

いや~、ものすごい、文学に出会ってしまいました。

「秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があって、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射しているのでありました。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもいなかった川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れているのでありました、、、」(一つのメルヘン)

ウ~ンこの「さらさらとさらさらと」、この繰り返し、この音の響きに、もう、まいってしまいました。

さらさらとしたその音がきこえてきたんですよね~。

もうすっかり、まいってしまって、話す口ぶりも、自分ではもう中也の詩句のベランメェ調になりました。

だれも、気づきはしなくても、自分ではもう充分、中也調のベランメェ調で、中也になりきっていましたね。

もう一丁引用しますね。

「柱も庭も乾いている
今日は好い天気だ」

「ああ、おまえはなにをして来たのだと、、、
吹き来る風が私に云う」(帰郷)

ジ~ンときたもんです。どうですか?

ひたすら本を読んで、自分のアイデンティティーを中也や太宰の中に確認し続けていたんですね、きっと。

学校のお勉強、そう、もうまったくあきらめてしまいましたね。ついていけないんですから、、。

それはそれで、やはり苦しいので、ますます読書にはげみました。完全に自己逃避型の読書です、、、。

中上健次とJAZZ

ロック、ロック、ロックと日々をすごしていると、若いその頃はもう、ロックの刺激にあきてくるんですよね。

もっと、強い、それこそ、魂の奥そこからうちふるえるような、そんな音楽をもとめはじめるわけです。

Jazz。ラジオから流れてくるJazzは耳にしていたけれども、もっとすごいJazzがどこかにかくされているにちがいない。そのJazzが何なのかわからないままに、、。

中上健次「破壊せよ、とアイラーは言った」。その頃中上健次を読んでいました。

新刊書がでるたびに、まっさきに買い求めていました。

ゴツゴツと難解で読みづらい文章。おまけに、書いているテーマも皆目わからない。けれども読んでいた。

中上健次を読むことで当時の文学界の最前線にくらいついてやろう、と思っていたにちがいありません。

最先端の文学の位置に自分の身をおくこと。う~ん、なんとも自己陶酔的でしたね。

ただ、活字を追うだけ。だって、わからんのですもん。ただの見栄っ張り。

「ジャズを聴いていた最初から最後までこのコルトレーンの熱狂にのめり込んだ者から言うと、コルトレーンのような熱いフリージャズでなければジャズでない、という排除の思考が起こって来るのである。

ブルーベックやMJQにも耳を傾けはするが、それがいくらスマートで、女と酒を飲みながら耳にするには都合よくても、妙な軽蔑感が起こる。綺麗で、シャレていて、スマートであるかもしれないが、娯楽から一歩踏み出したモダンジャズであるなら、音とは何か、フレーズとは何か問いつめて欲しい、と文句をつける気持ちが動く。

それがコルトレーン経験というものである」。(アイラーp141)

そんなJazzを聴いてみたい、という願望を抱くようになりました。

盛岡のジャズ喫茶で聞いたJazz。そこにそんなJazzがあった。

「ジャズは、人を魂という病気に陥す力を持っている」。(アイラーP133)

それからはもう毎日Jazz喫茶通い。

毎日、毎日。一日3時間も4時間もひたすら、Jazz。

コーヒー一杯で。つまらんJazzがかかった時は本を読む。ひたすらJazz。

脳みそのなかでうずまく「言葉」たちをしずめるためにも、言葉を消すためにも、脳みそをJazzで一杯にしつくそうとしていましたね。

もう東京にいかなくてはいけない。

中上健次を追体験するためにも。

歌舞伎町のジャズ喫茶にいりびたって、中上健次を体験するために。

そのために大学に進学したようなもんです。そして、盛岡では手にすることができないレコードと本を買いあさり、聴きまくり、読みまくるために、、。

なんとか新聞記者に

浪人生活もしました。

大学にも人より長く在籍させていただきました。

本当に親のスネをかじり、それこそ「ごくつぶし」のように生活し、ただただひたすら本をよんで音楽を聴くばかりの日々を送っていました。

ですから、学生時代に友人となにかをして遊んだなんて記憶もまったくないないんですね。だって遊ばないんですから。いや、遊べないんですね。本と音楽の中にしか現実をみようとしていませんでしたから。

そんな、いまでいうなら「ひきこもり」のような生活をしていても、東京で一旗あげる野望もなく、そそくさと、不本意ながら、盛岡に帰ってくるはめになりました。なんとなく行った職安に出ていた求人案内をみて応募したのが、建設業関連の専門紙の新聞記者。採用試験の作文には思いっきり知ったかぶりをして、ヘーゲルの弁証法なんぞまでふりかざして、いっそだれもわかりゃしないんだから「煙にまいてやれ」、そんな気分で書きまくりました。

幸運なことに採用です。

「ごくつぶし」もとうとう働くことになりました。

書くことはまったく苦になりませんから。

きっとそれは、長い長い自分にとっての暗黒時代、絶望的な落ちこぼれ時代からずっと書きつづけていた「日記」のおかげもあるのでしょう。

人と話をするくらいなら、書いて伝える方がはるかに私にとっては楽な手段でしたからね。話すように書くことができましたから。

仕事は興味深いものがありました。県や市や市町村に行き、建設関連の事業を聞き、記事にまとめることです。

ちょうどいま、盛岡で終盤にさしかかってきた「盛南開発事業」が始まろうとしている時期でその担当もさせていただきました。

結局、家業を手伝って、、、

新聞記者を三年勤め、なんかいろいろあって、ここでは書きたくないので書きませんが、結局家業を手伝うことになりました。

あまり、商売というのは好きではなかったのですが、、、。

なぜ好きではなかったかと申しますと、商売というのは、いわゆる物売りは、問屋から物を仕入れ消費者に売る。その差額を利益にするわけですが、その差額を得るというのが、な~んか嫌だったんですよね。だったらみんな消費者が直接メーカーから物を手にいれることができれば、物の値段は安くなるし、問屋も小売店もいらねえな~。いまの物流システムってのは変じゃないの。そんなことを考えていたんでは、いまいち気合もはいりませんよね。

でも時代は結局、そのように進んでいったのです。メーカーが問屋、小売店をはぶいて、消費者と直接取引きする時代に。

また、もうひとつの生き残り方はフランチャイズチェーン、いわゆるコンビニの時代に。建物や土地はオーナーが負担し、販売のシステムはチェーンにまかせる、みたいな。

いつかは独力で、、、

ですから、いつかは、そんな中間マージンを得ることで生活するのではなく、自分の技術で、その技術にたいする評価で「お金」を手にすることができたらいいな~と思いつづけておりました。

ああ、ですから、私はいま、なんとも至福にみたされているわけです。自分の技術、施術をたよりに生きていくことができる、いや、そういう道を歩みはじめたわけですから。

ひとそれぞれ、人生いろいろ、紆余曲折はあるわけですが、私はとうとう念願かなって、操体法をベースとした「盛岡せんぼくバランス治療院」を開業できたことに。こんな生活に到達できたことに、本当にありがたいと、日々、誰ともしれぬ、私を支えてくれる、万人の人々に感謝しております、、。

「ああ~、この世は極楽だ~」。