想とは感謝なり
過日(2018年9月22日)、仙台操体医学院の講習会に参加してきました。
講習会がいつものとおり定刻で終わりますと、いつものとおり反省会が始まります。
反省会ではいつものように雑談が花盛りです。
その席で、ひとりの若い美しい女性が、
「操体法の想(そう)について、よくわからないのですが、、、」といいます。
すると、仙台操体医学院の院長である今昭宏先生は、
「感謝ということだよ」と
ひとことで、まとめてしまいました。
そこで、「想とは感謝である」ということについて、僭越にも暴挙にでて、私なりに現段階で理解できていることを書いてみようと思います。
息(いき)・食・動・想について
息(いき)・食・動・想という「概念」をはじめて提唱したのは、操体法の創案者である橋本敬三先生であろうと、思われます。
この四つにあわせて「環」を加えた、5つの概念で語られることもあります。
これら5つを個別に語ってきた方々は古今東西、数多くいられるのでしょうが、
これらすべてをひっくるめて、ひとつの概念として語ったのは橋本敬三先生が初めてではなかろうかと思われます。
息(いき)については、呼吸法の専門家なり医師が語り、
食については、栄養学者が語り、
動については、運動学者が語り、
想については哲学者や心理学者や宗教家が語り、
環については、天文学者や環境学者が語りなどして、
それぞれの専門分野の専門家が自説を語っているものです。
けれども、橋本敬三先生は、これらすべてを「同時相関相補性」と位置づけ、
すべてが関係しあっていることを指摘しています。
これらひとつひとつを単独で論じるのではなく、「総合連関のメカニズム」の上にたって論じることを提唱していると思われます。
と、いうことは、操体法を学ばんとする者は、これらすべての事を学び続けなくてはならないということでもあります。
ですから、操体法の学びには終わりはなく「一生遊べるぞ~」という言葉になってくると思われます。
現代医学の盲点
ここで、橋本敬三先生の著書から、これまでのことを概観する意味でも、該当する個所を引用してみます。
「生体の歪みを正す」の中から「医者として五十余年」です。
P438
「私は、ここ十五年来、基礎構造と運動の力学について、だんだんはっきり自得できて来たし、運動の分析にも気がついた。
そしてさらに、私は運動系の変化が、自制可能な自己責任生活の必須条件としての
呼吸、
飲食、
身体運動、
精神活動
の四つの同時相関性であることを理解できたし、さらに互いに相補性になっていることにも気づいた。
そしてこれに併せて、”環境”への適応に相補性であることにも気づいた。
これら五つの相関関係の自然法則を学び取ろうとつとめている。」
このように息(いき)・食・動・想・環について言及しております。
さらに続けてみましょう。
「そこで生きるための絶対必須条件を最小限にしぼってみると、呼吸、飲食、身体運動、精神活動の四つとなり、これらは他人に代わってやってもらうことのできない、自らの責任においてやらねばならない営みである。
これらの営みは、どれ一つが法則にはずれても、互いに影響し合う同時相関相補性になっており、環境適応に影響する。
もちろん環境自体の変化とも相関する。
それゆえに、一つ一つの営みの自然法則を究めて、その総合関連のメカニズムも明らかにしなくてはならない。」
ここで、息(いき)・食・動・想が「生きるための必須条件」であり、なおかつ、「自らの責任においてやらねばならない営み」であると定義されています。
この息(いき)・食・動・想のうち、仙台操体医学院の反省会の席で質問した女性は、「想」が良くわからない、といいました。
橋本敬三先生の記述からいけば、想とは精神活動といいかえることができます。
精神活動、考えるということ、言語活動、脳の前頭葉の高次精神活動領域の活動、ともいえそうです。
けれども、この精神活動・想を今昭宏先生は、「感謝」と総括しました。
このことをもう少し、橋本敬三先生の思索の道をたどりながら、考えてみましょう。
呑気者
橋本敬三先生の著書・「生体の歪みを正す」は500ページを超える大部な本です。
この中でも私が好きな部分は、第四部と題された「自伝・随想・雑感」です。
青年期の橋本敬三先生の苦悩が赤裸々に描かれています。
「その頃の苦悩は深刻で、飯も喉につかえて通らぬ日がたびたびであった。
自己批判や及落の不安や恋愛のことや二重三重の苦しみを味わって、宗教などど無関係に平気でやりたいことを大胆にやっている人々がうらやましかった。
ちかごろの世代はこんな苦悩を何とみるものかしら。」
「五年間苦しんだ。
医学生になってからの或る日、大きな皮表紙の聖書を二冊もボロボロになるまで読みつぶしたという無名の牧師・平野栄太郎氏から、エペソ書にある
「世の創(はじめ)の前より我らをキリストのうちに選び、、、愛をもて己が子となさん事を定め給えり、、、」
という聖句を教えられて、豁然(かつぜん)として目が覚めた。
何と、自分はすでにすでに救われていたのだ。
現象以前の自分の身分を知らされたわけである。
それ以来四十年、全く呑気になった。
あまり取越し苦労をしたことがない。」
現象以前の自分とは、自分がこの世に生まれてくるより前ということです。
世の創(はじめ)の前より自分はすでに救われていたということに気づいたという表明です。
ここに、今、あるということは、今、ここに救われてある、ということだということだと私は理解しております。
そのことに豁然(かつぜん)として目が覚めたというのです。
このことは、この瞬間というのは、頭で理解できた、わかった、ということではなく、
宗教学の泰斗・玉城康四郎先生の言葉を借りて言えば、「全身体的思惟」ということでしょう。
心も体も一体となって、「わかった!」という瞬間だといえましょう。
この「全身体的思惟」の瞬間こそが、いわゆる「悟り」といわれている瞬間だと玉城先生はおっしゃっております。
このような瞬間を橋本敬三先生自身が体験したということ。
そのことを「豁然として目が覚めた」と表現しているのだ、と、私は思います。
感謝について
感謝という言葉は、感謝そのものでは意味をなさず、何ものかについての感謝だといえます。
その感謝の対象というものがあるはずです。
そのことについて考えてみましょう。
何について感謝することが、「想」の操体ということになるのでしょうか?
「何と、自分はすでにすでに救われていたのだ。」ということ。
このことへの感謝、救われて生きていることへの感謝だと、私は思うわけです。
私がこの世に生まれる、現象する以前から、すでに救われているのですから、
この世に現象し、生れ落ちてからも、もちろん救われ続けているはずです。
このことへの感謝。
私が、今、ここに、救われて生きていることへの感謝。
生きていることへの感謝なのだと、私は思うわけです。
このことへの気づきを土台として、「想」、精神活動を展開していくこと、
このことが「想」の操体法とは感謝だ、という今先生の言わんとすることではなかろうか、と、私は推測するわけです。
そのへんの、真意は今先生に、直接、問いかけてみて下さい。
ここに記したことは、あくまでも「私」が考える、「想」の操体法についての記述です。
そんなお話をしてみたい方は是非、仙台操体医学院まで遊びにいらしてくださいね。